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ひぐらしのつどい3配布小冊子 の変更点


[[追加TIPS]]
2009年9月23日に開催された、『ひぐらしのなく頃に』中心同人誌即売会「ひぐらしのつどい3」で配布された小冊子の全文です。
改行・誤字・頁など原文なるべくそのままにしました。
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 内赦執行機関は、天界大法院の下すあらゆる命令を、確実かつ精密に執行する。
 そこに所属する異端審問官は法の騎士と呼ばれて讃えられ、正義に燃える若者が目指す将来の夢の一つに数えられている。
 だから、コーネリアが異端審問補佐官となった時、彼女をよく知る者たちは、これっぽっちもそれを驚くことはなかった。
 彼女は愚直に、小学校の卒業アルバムに書いた将来の夢を実現したのである。

 彼女が入局して最初に驚いたのは。
 想像を絶して、……暇な仕事だったことである。
 実際に異端を審問するエースたちは多忙を極めるのだろうが、……コーネリアが配属された部署は、とても暇な仕事だった。
 そしてさらに想像を裏切って、…………ルーズであった。

「謹啓、謹んで申し上げ奉るっ。コーネリア三等司祭、着任するもの也! 上司先輩諸賢、我に任務を与え給えッ。」
「………いや、特にないよ。…あ、お茶のお代わり、お願いできる? あと、平時は無理に法語を使わなくても大丈夫だから…。」

 初めての出勤日に胸を張って、先輩補佐官に仕事はないかと問い掛けた彼女への先輩の返事が、それだった。

「謹んで申し上げ奉る。勤務中は法語を使用するもの也と服務規程に記されているものと知り給え…!」
「まー、一応そういうことになってるけど。七管は組合との折衝で、外務以外では無理に使わなくてもいいことになってんの。法語じゃ堅苦しいでしょ? あ、服務規程の話が出たから教えとくけど、昼休みも12時から1時までじゃなくて、11時45分から1時までだから。」
「き、謹啓…! 昼休みは12時からの1時間と定められているものと知れ…!」
「ほら、3時に15分休みがあるでしょ。それを昼休みと連結して取得してもいいってことで、組合が折衝したの。先輩方が勝ち取った権利なんだから、ごちゃごちゃ言わないようにね。あと、組合が決めたわけじゃないけど、新人は30分早く出勤して、みんなの机の掃除とお茶の配膳をしとくのが慣例だから。ま、初日だし、あんまり硬くならないで、ね。よろしくね、コーネリアちゃん。あー、あと、今日の6時から隣のススキ屋で組合の新人歓迎会あるから出てよね。鉄火丼出るよ、鉄火丼。」
「よ、よろしく申し上げ奉る、同士二等司祭…。」
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 法語は、コーネリアが話す古語のこと。
 古語で書かれた法文を適正に使用するため、法の番人であり執行者である彼らには、勤務中には法語で話すことが、本来、義務付けられている。
 しかし、話し言葉からあまりに掛け離れたそれを一日中強いられるのは、楽なことではない。
 各管区の職員組合は、早々のうちから上層部と団体交渉し、外務以外の場では法語の使用に拘らなくても良いという権利を勝ち取っていた。
 その為、彼らが交わす会話は全て、普通の口語だったのだ。

「コーネリアちゃんはそこの席ね。デスクマット、新しいのあるから使ってね。」
「感謝申し上げ奉る…。」
「わはは、大丈夫だよ、無理に法語使わなくても怒られないよ。」
「………ん……。」

 コーネリアにとって、初出勤日の一番最初のショックが、それだった。
 将来は必ず異端審問官になって、悪を誅したいと願ってきた彼女にとって、法語はその最大の象徴だった。
 生涯を捧げたい職務、異端審問官。それはつまり、生涯を法語で過ごすということ。
 だから、彼女は法語に少しでも慣れようと、貧しかった両親に何度も訴え、お小遣いはいらないから、法語会話教室に週1回、通わせてもらっていた。
 法語が使えなければ異端審問官にあらず。
 コーネリアは、日々の会話もすべて法語にし、幼い内から、生涯を法語で過ごす覚悟を見せ、将来は異端審問官以外の何者も目指さないと、はっきり示して見せたのだった。

 そんな、真面目過ぎて勤勉な彼女だったから、異端審問官に求められる学問のすべてと法語で、優秀な成績を収めた。法語に至っては、学校弁論大会で金賞ももらっている。
 だからそれは、大法院職員試験の際に、彼女をずば抜けた成績で採用を決定させてくれた。
 省庁では、優秀な成績の人材から望みの部署に配属されていく。
 ならば、コーネリアは望み通りの部署に配属されたはず。

 しかし、面接での評価が、何かに影響を与えたのかもしれない。
 彼女は確かに希望通り、内赦執行にかかわる部署に配属されたが、そこは執行機関ではなく、総務部門であった…。
 総務部門は、様々な書類事務を集約している部署である。
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 とても重要な部署であることは間違いないが、悪と対峙し、それを裁くのは別部署の担当だった。少なくとも、彼女の配属された部署ではない。
 彼女の第一希望は、第八管区のSSVDだった。
 厳格な実力派と知られるウィザードハンティング・ライト率いる、精鋭の魔女狩り集団。
 さもなくば第二希望は、第七管区のアイゼルネ・ユングフラウ。
 十の楔の異名を持つドラノール・A・ノックスも有名だ。
 ……そのどちらもどころか、書類事務の総務部。
 コーネリアは自らに言い聞かせる。心の中においても、もちろん法語で。

 落ち着き給え、我が心。若輩、コーネリアよ。
 千里の道も一歩から。
 我が目標のための道のりは長く険しいものと知り給えっ。

 彼女は挫けない。
 今の自分には、まだまだ大きな任務が勤まらないからこの部署に配属されたのだろうと自分に言い聞かせる。
 しっかり実績を築き、認められれば、いつか必ず、執行部門に異動できる。
 そして異端審問補佐官としてさらに勉強を重ね、やがてはきっと審問官試験に合格し、異端審問官として活躍してやるっ。
 さぁ、ドンと来給え、お出で奉れ、我が勤務っ!
 そう意気込み、デスクの引き出しを開ける。前任者の残しただろう資料を確認するために。
 そこには資料を閉じた重そうなファイルがぎっしり詰められていた。そしてそれらの一番上に、その本が置かれていた。
 一番上に置かれていたということは、一番重要な資料だということだ。

「………『くろすわ!』。」

 わくわく懸賞、クロスワードパズルマガジン。「くろすわ!」。
 これが、……前任者にとって、一番重要な資料だったということかっ…。

「こ、これしきで挫けることなどないと知り奉れっ。ふぬっ。」

 挫けてはならない。挫けないのが彼女の取り得なのだ。
 コーネリアは、「くろすわ!」をリサイクルボックスに、ちゃんと分別して放り込んだ。もちろん、中綴じのステープルもちゃんと外して。

 自分に仕事が与えられないのは、自分にそれを遂行する能力が足りないせいだ。
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 他の先輩職員の仕事を見て覚え、早く一人前と認めてもらおう。
 そうすれば、責任のある仕事をまかされ、もっと責任ある仕事を任されるチャンスとなるだろう。そうして着々と実績を積み重ね、やがては審問官試験にも合格し、あの憧れの耳付き帽を賜るのだ…!

 耳付き帽とは、異端審問官だけに被ることが許される、帽子のアレだ。
 長い耳が垂れ下がっているように見えるのでそう呼ばれている。
 あれが垂れ下がって初めて、念願の異端審問官となれるのだ。
 だから、耳のない今の自分の帽子など、ナースキャップの偽物でしかない。

「我が制帽よ、必ずや耳を生やすものと知り奉れ。いつか、きっと。必ず也やっ。」

 ぐっと両拳を握り締め、帽子に未来を誓う。
 さぁ、がんばろう。ただ座ってるだけでは、仕事は覚えられない。
 覚えないから、何も任されない。
 仕事は聞いて覚えるだけではいけない。誰かが教えてくれるのをぼんやりと待っているのではいけない。
 自ら覚えようとし、見て盗むのも大事だ。
 教えられるのを待って、ぼけーっとしていると、きまって中年親父どもに、「ゆとり世代?」と聞かれて、イラッとするからだ。

 私は自ら学ぶ積極性のある人間だとアピールしなくては。
 先輩職員たちの仕事ぶりをじっと観察する。彼らの仕事を盗み、学ぶために。

 スポーツ新聞を広げ、赤鉛筆をくるくると回す職員。
 窓の向こう遥かに思いを馳せながら、ずっと湯飲みを握り締めている職員。
 ノーパソに、カチャカチャと熱心に何か操作をしているのだが、後ろを通り掛ると、ささっと別画面に切り替えて、作業を隠してしまう職員。
 ……もちろん、たまには書類事務をして見せるのだが、それは思い出したかのように、という言葉がぴったりだ。
 その勤務姿勢も含めて、コーネリアの参考になるものは何もなかった。

「コーネリアちゃん、ちょっと頼んでいい?」
「はっ、はい、同士二等司祭!」
「階級なんて恥ずかしいよ、名前でいいよ。今日のお昼ね、鮎川でおそば取るんだけど、コーネリアちゃんも頼む?」
「じ、自分は、お弁当の用意があるもの也。辞退と感謝を申し上げ奉る。」
「…………あ、そう? じゃあ注文をお願いできる?」
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 前任者がデスクマットの下に置いていた電話番号一覧は、どうも近隣の出前をしてくれるお店のものらしかった。
 外線は0発信から。……ぴ、ぽ、ぱぱ、ぴぴ、…ぽ。

「ああい、鮎川ッ。」
「き、謹啓、謹んで申し上げ、」
「はいッ?! もしもし?!」
「謹啓、謹んで申し上げ奉るっ…! 昼食の出前注文を望むものと知り給えっ。」
「はい?! トーチャン、電話変わってくれる?! キンケイさんとかわかる? 頼んだ冷水器の業者さん? もー、代わってよう!」
「ったくぅ! あーはいはい、もしもし、おそばの鮎川でございます。」
「謹啓、謹んで申し上げ奉るっ。昼食の出前注文を望むものと知り給えっ。」
「え?! あー、ハイハイ、注文どうぞー! カーチャン、法院の人だよ、冷水器はまだ頼んでないって! ハイー、注文どうぞー!」
「ちゅ、注文は以下と知り奉れ、鴨せいろ、大盛り、天ぷら、カツ丼…。」
「鴨せいろの大盛り?!それとも盛りそば大盛り?! 天ぷらはうどん?そば? カツ丼は関東風でいいの?」
「え、あ、う……、待ちたまえ、確認するもの也や…。」
「お姉ちゃん、新人さん? 口語で大丈夫だよッ。待ってるから早く先輩に聞いてきな!」

 注文先のそば屋の大将にまで、法語でしゃべらなくていいと言われる…。
 コーネリアは、小骨の引っ掛かったような気持ちになりながら、先輩職員たちに注文をもう一度確認した。

「謹啓、お尋ね申し上げるもの也や。……鴨せいろは大盛りや否か。天ぷらは関東風でよいのか否か、カツ丼はうどんとそば、どちらが良いのか、教え給え…。」

「鴨せいろは大盛りじゃなくていいよー。」
「俺の盛りとこんがらがってない? 俺のが大盛りね?」
「天そばの関東風って何? 新メニュー? じゃあ俺、それでいいわ。」
「カツ丼はセットじゃなくて単品でお願いね。もう、若くねぇからセットは食えねぇよー。そうそう、こないだの検査でさ、尿酸値が出ちゃってよー。カミさんがうるさくってさー。」
「………ッ、……??? りょ、了解奉るもの也や…。」
「だからコーネリアちゃん、法語は使わなくていいって。おかしな言葉使ってたら、注文間違っちゃうでしょ?」
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「ん、………おそば屋は、外部と知り給え…。外部とは法語でと服務規定で……。」

「大丈夫?新人さん?! もっかい注文お願いできるー?!」
「き、謹啓、謹んで申し上げ奉る。注文は以下と知り給え。……鴨せいろ1つ。鴨せいろ大盛り1つ。天ぷら関東風1つ。カツ丼1つ。」
「んー?! 天ぷらはおそばとうどん、どっちぃ?! あとカツ丼はね、関東風の卵とじと、関西風のソースと2つあるのウチは。」
「つ、謹んでお尋ね申し上げる。再度、詳細を説明し給え…。」

 そば屋に入ったことはおろか、出前の注文さえしたことのないコーネリアにとって。
 初めてのそば屋の注文は、大法院職員試験(一類)よりも、はるかに難度の高いものだった……。

「……コーネリアちゃぁん。だから言ったじゃん。法語だと注文間違うよ、って。」

 正解の注文は、鴨せいろ1つ。盛りそばの大盛り1つ。天ぷらうどん1つ。カツ丼1つ。
 天ぷらは、そばともうどんとも言わなかったので、盛り合わせのことだろうと思った。
 なので、正しく注文が取れたのは、鴨せいろ1つとカツ丼1つだけ。……2件もミスオーダーを出してしまった。

 コーネリアは初仕事さえ、……それもお昼の注文さえまともに取ることができず、コンビニに買い物に出る先輩たちに、「これだから最近の子は、」「ゆとりだなぁ。」などと陰口を、あからさまに叩かれるのだった。

 法語はむしろ止めた方がいいよと忠告されたが、それでも彼女は頑なにそれを拒んだ。
 そのため、素直で扱い易い新人を期待した先輩たちは、彼女が配属されてからたったの3時間で、彼女が箸にも棒にも引っ掛からない、変わり者であることを理解する。
 ちやほやとしてくれた午前と、呆れたように溜息をつかれる午後では、あまりに空気が違うのだった……。

 そんな新人生活が続いた。
 新人研修所では抜群の成績を収めたが、研修所で習う厳格な規律と、実際の現場のいい加減さは、あまりに乖離している。
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 彼女は次第に、自らの夢への情熱を揺らぎ始めていた……。
 今の彼女は、トイレの鏡に映る、覇気を失った自分を見ては、溜息を漏らすようになっている……。

「……逃げる。」
「え?」

 いつものように、トイレでぼんやりと鏡を見て溜息を漏らしていると、突然、後ろから声を掛けられた。
 逃げる? 何が? 何を? え?

 振り返ると、そこにいたのは、他部署の職員だった。
 いや、職員なんて呼んではいけない。
 彼女が被る帽子は、紛れもなく、耳付きだったからだ。

「し、失礼申し上げ奉る、同士、異端審問官ッ!」
「……幸せが。」
「は?」
「……耳はあるが、まだ審問官じゃない。」
「え? あ、……しッ、失礼申し上げ奉る、同士上級補佐官ッ。」
「……逃げる。」
「????」

 何だか、うまく会話の歯車が合わない。
 しかし美しい黄金の長髪の彼女は、紛れもなく、審問官試験に合格済みの上級補佐官だった。

 審問官試験に合格すれば、自動的に異端審問官になれるわけではない。
 各管区の異端審問官には定数があるため、その空席を待たなければならない。
 その為、異端審問官になれる資格があるにもかかわらず、その席をまだ得られない補佐官を、上級補佐官、もしくは席なし審問官と呼ぶ。
 未来の異端審問官を約束されている彼女ら上級補佐官は、異端審問官の片腕として、数々の重大な任務を補佐する。……そしてやがては自らが最前線に……。
 憧れと羨望が瞳にこみ上げるのを感じずにはいられない。
 ……しかし、その上級補佐官も、こうして口語で話しているのが少し落胆だった。

「き、謹啓、謹んでお尋ね申し上げる。……逃げるとは何か、教え給え。」
「……幸福が。」
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「幸福が?」
「……逃げる。」
「何故也や…?」
「……溜息をつくと。」
「………………。」

 “溜息をつくと幸せが逃げてしまう”。
 それだけを伝えるやり取りのために、ずいぶんと苦労してしまう。
 こんなおっとりした、ちょっと歯車のズレてそうな人が上級補佐官なんて、何だか信じられなかった。
 ……でも、それもいいかもしれない。
 今や私は、とっくに変わり者扱いだ。
 その変わり者にも、上級補佐官になれるチャンスがあることを教えてもらえただけでも、幸運かもしれない。

「……抜いた方がいい。」
「肩の力を、也や?」
「……そうそう。」
「感謝申し上げ奉る。そのように心得るもの也。」
「……肩の力を。」
「も、もう聞いたものと知り給え。」
「……うっかり。」

 おかしな人だった。
 一言で言ってしまえば済むことを、ちょっといらいらするような言い方をするものだから、実にわかりにくい。
 ……ただ、法語にこだわり不快がられている私に、それを批判する資格はないのかもしれない。
 法語にこだわるのは、単なる私のこだわりだ。
 それを周りに押し付け、服務規定では正しいからと居直るのは、どうなんだろう…。
 そう自問してしまい、再び溜息と共に俯いてしまう。

 すると、上級補佐官は、さっきに比べたらずっとハキハキと、……いや、それでも普通の人のと比べたらきっと諭すくらいにゆっくりに違いない口調で言った。

「異端審問官の仕事は、異端を審問することで、法語を喋ることではない。」
「ん、…………。」
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 絶句する。何も言い返せない。
 もしそれを口にしたのが、グータラな先輩職員たちだったなら、耳を貸さなかっただろう。
 しかし、耳付きの上級補佐官の口から語られる以上、それを無視することは出来なかった。

「も、申し訳ないと申し、……ん、……申し訳、……ありません…。」

 本当に久しぶりに口語を使う。……恥ずかしくなるくらいたどたどしかった。
 赤面して再び俯く私を見て、上級補佐官はきっと、私の胸中をもう、深く読み取っていたに違いない。
 私の自省を、口にせずとも理解し、柔らかに微笑みながら頷き返してくれた。

 廊下の掲示板に張ってある告知の1枚を指差す。
 それは、人事部の掲示した、プロポーザルプロジェクトの募集告知だった。

 これは、やる気ある職員から自発的にプロジェクトを提案させて公募し、優秀な提案者には、それを実際に実行する人事的配慮が与えられるというものだ。
 下ばかり俯いていたから、こんな告知が張り出されているのに、気付きもしなかった……。

「謹啓、謹んで申し上げ奉る。」

 唐突に上級補佐官が私の目を見ながら法語を使う。

「初心に帰り、己が情熱をもう一度見つめ直し給え。……貴女に期待するもの也。」

 それが、ガートルード上級補佐官との最初の出会いだった。
 第一印象は、おっとりとした、自分に負けないくらいの変わり者だという印象だった。
 窒息しそうな日々のアクセントになったし、変わり者でも審問官試験に合格できるという自信を与えてくれた。その程度に思っていた。

 しかし、彼女が極めて優秀な補佐官であることは、誰もが異口同音に認めた。
 無趣味無感動で、口下手。
 誰も友人になれない、近寄り難い人物ではあるが、アイゼルネ・ユングフラウの7人の異端審問官を陰から支える、8人目の異端審問官とさえ呼ばれていると、誰もが認めるのである。
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 だから私は、ますますに奮起し、彼女に指し示されたチャンスに挑戦することにした。

 職場での人間関係には問題のある私だが、勉強と論文なら誰にも負けない。
 締切までの時間が短かったため、私は短期プロジェクト部門に応募することにした。

 もうじき、ハロウィンだった。
 なのでハロウィンをテーマに、私なりのプロジェクトを提案してみることにした。

 ニンゲンの世界におけるハロウィンは、精霊や幽霊などの、この世ならざるものとの交流が盛んになる時期を示す。
 それは人ならざる者たちの世界でも同じだ。
 ハロウィンの時期には、魔界や霊界などからの、人間界への渡航制限が大幅に緩和され、とても大きなお祭り騒ぎになる。
 お祭りになれば、はめを外す者も現れる。それがさらに度を超す者もいる。
 従って、ハロウィンの時期には決まって、軽犯罪が多発した。
 コーネリアは、ハロウィン綱紀粛正プロジェクトを提案。
 充分な根回しも派閥もない彼女のプロジェクトが、もちろん評価されるわけもない。

 しかしどういうわけか、審査員特別賞に選ばれた。
 予算も正規プロジェクトの承認も下りないが、自分にできる範囲内で身近から挑戦してみなさい、というような賞だった。
 いきなり送って、いきなり大抜擢などということは、やはりない。
 しかしそれでも、これは本当の自分と、その情熱を見てもらう良い機会のはず。
 それが人事考課で評価されれば、ひょっとすると、自分が本当に望んだ部署への異動だって、夢ではないかもしれない。

「コーネリア三等司祭。特別賞、おめでとう。これ、副賞の鉛筆セットね。」

 準一等司祭の係長が、係内の朝礼で表彰してくれた。
 先輩たちが拍手してくれたが、ぼそぼそと陰口も聞こえた。

「あのプロジェクト、わざわざ書いて送ったんだなぁ。」
「真面目な子なのは認めるんだけどねぇ。」
「若いねぇ、元気だねぇ。」「ゆとりだねぇ。」
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 プロポーザルプロジェクトに応募するなど、暇な職員か、よっぽどの変わり者。あるいは、現在の職場に不満のある者。……そういう風に見られているようだった。
 だが、コーネリアは挫けない。
 情熱に燃えていた、入局当時の自分を思い出し、もう一度握り拳を作った。

 係長は、コーネリアの対人関係の面で問題があると見なしていたが、真面目過ぎるくらいの情熱については一目を置いていた。
 その為、彼女のプロジェクトをコピーして全係員に配り、一同の前でそれを発表する機会を設けてくれた。

「謹啓、謹んで申し上げ奉るっ。我が立案せしプロジェクト名は、“ハロウィン綱紀粛正プロジェクト”也やっ。」

 ざわざわざわ。
 コーネリアは胸を張って、プロジェクトの要綱を読み上げた。
 まず、ハロウィンの時期は浮ついた軽薄な悪魔たちや幽霊たちにより、様々な軽犯罪が多発すること。
 それを防止するため、様々な公的機関がそれぞれの立場からキャンペーンを行っている。
 それに対する取り組みは本来、大法院の仕事ではないが、法の番人の精神からは、それを見過ごして良い道理はない。

 大法院の仕事は裁くことのみで、そもそも、裁かれる人間を抑止することに無関心過ぎる。
 コーネリアはそう書き、大法院の職員も、様々な犯罪やその温床となる行為について、防止のための啓発行為を行うべきであると主張した。
 なるほど、実にご立派な話だった。

「まずその為には、大法院職員自らが模範となるべく、一層の綱紀粛正を行うと知り給え。」
「……って、具体的には?」

 ハロウィン期間中にもっとも多く想定される軽犯罪である、泥酔を理由にした暴力行為。
 泥酔者に対して暴力行為を行わないよう啓発することは、不可能だ。
 となれば、その行為の温床である泥酔行為を取り締まればいい。

「大法院職員は、ハロウィン期間中には飲酒にかかわる不祥事は特に過敏となり、模範となるべきと知り奉れっ。よって、大法院職員はハロウィン期間中は、
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一切の飲酒を禁ずるもの也。また、未成年の非行の温床となることから、併せて職員の喫煙も禁止すると知り給えっ。」
「ざわざわざわざわっ。」

 職員は基本的にヘビースモーカーが多い。さらに酒飲みも多い。
 酒にも煙草にも関わらない職員など、……少なくともこの係では、コーネリア1人だけだった。

「我ら職員が模範を示すことを公示し模範を示さねば、人心に届くことはないと知り給え。よって、当プロジェクトにより、本日からハロウィン期間終了まで、当係の飲酒と喫煙の一切を禁止するものと知り給えっ。」
「……あー、課長の決裁が出てます。皆さん、よろしくお願いします。」
「ざわざわざわざわ!」
「あのー、組合のお月見が来週あるんですが…。これはコーネリアちゃんのプロジェクトより前から決まってるから例外ですよね…?」
「謹啓ッ、謹んで申し上げ奉る。当プロジェクトにはいっさいの例外は無きものと知り給えっ。飲酒、喫煙の許可は、その一件毎に部長に書面にて許可が必要なものと知り給えっ。」
「ざわざわざわざわざわ!」

 恒例のお月見会は、説明するまでもなく、親睦を目的とした秋の飲み会だ。
 孤立しているコーネリアにはわからないだろうが、他の職員たちにとっては一応、潤滑油となっているものだった。
 しかし彼女には、はめを外し不道徳に走る可能性を生み出す、悪の温床としか思えない。

「そこまでの模範を尽くした上で、当係職員一同は本来勤務時間以降、駅前、繁華街等で、啓発グッズ頒布に従事、一般にハロウィン期間中の綱紀粛正の理解を協力を求めるもの也っ。」
「ざわざわざわざわざわ!」
「それ、……残業ですよね? ハロウィン期間中、ずっと?」
「残業代出るんですか…?」
「課長から、残業代の対象にしても良いと指示が出ています。ただし、今期はすでに残業代がキツキツですので、その……。」
「あの、私、子供の迎えとかあるんで残業、困るんですけど。」
「ざわざわざわざわざわ!」

 情熱的な素晴らしいプロジェクトのつもりだった。
 他人に綱紀粛正を求めるなら、まずは自分たちから。間違ってないはずだ。
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 コーネリアは若々しい情熱を秘めた胸を、誇らしげに張るが、職員たちのざわめきと陰口は収まらなかった…。

 その日の夕方にはすぐ、職員労働組合の書記長級が部長を直撃。
 お月見の中止撤回と、飲酒・喫煙禁止の撤回。
 そして時間外労働矯正の撤回について、迅速な回答を求めた。

 飲酒・喫煙は憲法が認めた個人の権利であり、それを禁止すれば人権侵害の恐れが極めて高い。“禁止”ではなく、“禁止に向けた努力”にすべきであると主張した。
 時間外労働の強制についても、服務規定と、組合事務室にストックされている類似裁判の判例集から、とうてい認めがたいと主張。これについても、強制ではなく、各職員の自主判断に任せるべきで、“極力参加するよう努力”にすべきとした。
 また恒例の秋のお月見会については、官房室長からも金一封が出ており、官房室に無断でもはや中止できるものではない。一層の綱紀粛正を心がけ“努力することと”とし、平年どおりに開催すべきであるとした。

 部長は、今後の円滑な組合折衝のため、これらの全てを了承。
 コーネリアのプロジェクトのあらゆる項目に、“努力”という単語が付け加えられ、一切の強制力が失われた。
 しかし、コーネリアは「努力」という言葉が大好きだったので、特に何とも思わず、この修正を受け入れた…。

 翌日。
 職場にたなびく紫煙が、いつもとまったく変わらないのを見て、コーネリアは愕然とする。
 ハロウィン期間中は極力禁煙をっ、と訴えると、

「いやぁ、何度も禁煙しようとはしてるんだけど、難しくてねぇ。努力はしてんだけどねぇ…。」
「吸うとさ、能率が上がるんだよ。これ、今日中に決済に回さないといけないし。」
「してるよ、禁煙の努力は。難しーんだけどねぇ、わははは……。」

 そんな返事ばかり。吸わない人間にはわからないよ、みたいなことばかり言われ、追い払われてしまう。
 ならばせめて飲酒は。お月見会は自粛してくれるだろうかと思ったが、部内全員の出席は相変わらずで、誰も辞退を申し出た者はいなかった。
 そして、特に申し出たわけではないが、……もう私の名前に二重傍線が入れ
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てあり、自分ひとりが欠席扱いになっていた。
 辞退を申し出る手間が省けて、…多分、良かった。

「ちわー。法院前署でございますー。コーネリア司祭はおられますか。」
「謹啓、謹んで申し上げる。自分がコーネリアであると知り奉れ。」
「啓発用のティッシュ、もってきました。ここに積みますよ。おら、お前ら、ここに運べ運べっ。」

 警察の若い職員が、ドカドカと大きなダンボールを積んでいく。
 ハロウィン期間中の綱紀粛正キャンペーンは、警察でも大々的に行う。その為、啓発グッズもたくさん作っていた。
 これは、「適度な飲酒で楽しいハロウィン。お酒は飲んでも飲まれない」と標語の入った、啓発ティッシュだ。
 駅前や繁華街で連日配るにはかなりの数が必要だ。だから数万個を分けてもらうよう交渉済みだったのだ。

「……コーネリアちゃん。これ、配るの?」
「そうと知り給えっ。これをすべて繁華街で配り、訴えていくもの也。」
「………ざわざわざわざわ。」
「あの、そこのダンボール置いた場所さ。来週の納品物を置くために空けた場所なんだけどさ。来週までにこれ、片付く?」
「この程度の数、みんなで配ればあっという間に片付く也! まったく問題ないと知り給えっ!」
「ざわざわ。」「くすくす。」

     ・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 夕暮れの通用口で、コーネリアは台車に載せた啓発ティッシュのダンボールと一緒に、ひとり、ぽつんと待っていた。
 ティッシュ配りは、有志だけで行うことになった。“極力参加するよう努力”することになっていた。
 ……しかし、もう何となく、わかってしまっていた。

 だから、それ以上は待たず、一人で大きなダンボールを積んだ台車を押して、駅前の繁華街に行った。
 夕方のオレンジの空が、夜の紫に美しいグラデーションを見せていた。
 夏がもう終わっていることを思い出させるように、風はほんの少しだけ涼しい。
 駅へと急ぐ人々の雑踏の中、適当な街路灯を根城に決め、ダンボールを開く。
 中にはぎっしりの、啓発用ティッシュが詰め込まれていた。
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 ……志のない人が配っても、心が伝わるはずなどない。
 ならばなるほど、来ない方がマシというもの。
 それに、誰も助けてくれなくったって、自分ひとりでやり遂げる覚悟だ。

「謹啓、謹んで申し上げるもの也…! ハ、ハロウィン期間中の綱紀粛正にご理解ご協力賜わりたくここにお願い申し上げ奉るっ。」

 聞きなれない法語に、道行く人たちは珍しそうに顔を向ける。制服姿も珍しいのだろう。
 私は雑踏の喧噪に負けないように、大きな声を振り絞って訴えた。
 しかし、彼女が何を言っているのか、なかなか伝わらなかった。部分的には理解できたようだが、足を止めるにも値しない堅苦しいものだと理解し、彼らは次々に通り過ぎて行った。

 ……やはり、法語では駄目なのだろうか。
 しかし、自分の不慣れな口語で、道行く彼らに伝えられるだろうか……。

「ハ、……ハロウィン期間中の、……の、……。綱紀粛正にご協力をお願いし……まぁす……。」

 慣れない。大きな声で言えない。……やっぱり駄目だ。
 どうして?

 法語こそが夢であり、憧れの象徴だったからだ。
 正義を貫く異端審問官になるのが夢だった。だからどんなことにも挫けたくなかった。
 だから。
 こうして口語で話さなければならないことが、……自分の信念を曲げているようで、…悲しかった。

 家路を急ぐ人々は、珍しい制服姿に一瞬の関心を示してはくれたが、啓発のティッシュを受け取ってくれるかは別問題だった。
 周りでやっている、飲み屋やカラオケボックスのチラシ配りは要領がいい。
 しかしコーネリアには、そんな要領やコツも、わかるわけもない。
 なかなか受け取ってもらえず、……今の自分は、幼いころに読んだ、マッチ売りの少女そのものなのだと気付き、……さらに悲しくなった。

 ……自分は、幼いころの無邪気な夢だけにすがりつき、……現実を何も直視せずに、ここまで来てしまったのではないだろうか…。
 今、自分がしていることが果たして、幼い日に憧れた異端審問官の姿なのだ
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ろうか…?

 一度流れを失うと、通行人たちは示し合わせたかのように、誰も受け取ってくれなくなる。

「…ハロウィン期間中の、……綱紀粛正に……、ご協力を……お願いしまぁす…。」

 ……恥ずかしい気持ちに堪えながら、懸命に口語で受け取ってくれるように訴える。
 その日は、深夜になるまで頑張っても、ダンボール箱の半分を配るのがやっとだった。
 そのダンボール箱はまだ5箱も、職場に積まれているのだ。
 1日に1箱のペースじゃなければ、とても1週間では片づけられない…。

 ずっと立ちっぱなしで、足は痛むくらいにくたくただった。
 明日からは足の痛みを堪えながらの勤務と残業になるだろう。
 ………計算をするまでもなく、……自分1人で1週間以内に全てを配り終えるなど、不可能だった…。

 当然だ。あれほどの数を、取り寄せたのだから。
 ……なぜ?
 良い行いなのだから、当然、大勢の賛同者が出ると思った。
 ならば、みんなでたくさん配れるよう、たくさん取り寄せる必要があると思ったからだ…。
 ……誰も、………私を手伝ってなど、…くれなかった。

 その後の1週間の、連日の深夜までの残業は、私に無言で、何かを問いかけてくれた。
 私が本当にしたかったことって、何だっけ。
 私が本当はしなければならないことって、何だっけ。

 他のチラシ配りの要領を覚え、一度に2つ3つを配るなどのコツを掴み、多少のペースアップを図れたが、……最後の夜を迎えても、全体の半分をようやく終えるのが、精一杯だった……。

 今日は部での飲み会、「お月見会」がある日だった。
 だから勤務終了のチャイムと同時に、先輩たちはみんな、レンタルバスに乗ってどこぞの河川敷の桜並木に行ってしまった。
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 ……私一人が、今夜もダンボールを台車で運び、駅前で深夜まで、ティッシュ配りをしている。
 うぅん、今夜に限ったことじゃない。……昨日も一昨日も、……あるいはひょっとすると、……この仕事に就いてから、ずっとかもしれない……。

 お月見をするということだけあって、その夜は、丸くて酷薄なくらいに真っ白な、満月だった。
 職場の彼らは、せめてこの期間だけ飲酒を自粛するということにさえ、協力してはくれなかったのだ。
 ………いや、そんなことに協力する義理など、やはりなかっただろう。

 私の目的は、この時期が平穏であるよう大勢に訴えることであって、職場の懇親会を中止することではない。
 ……異端審問官の仕事は、異端を審問することで、法語を喋ることでは、ない。
 それとまた、まったく同じ論法だったのではないか。
 あの日、ガートルード上級補佐官に言われたことを、私は何となく理解した気でいた。
 しかし、まったく同じ轍を再び、踏んでいる…。

 今あるダンボールの中身さえ、今夜中には配り切れそうにない。
 無論、未だに職場には数箱のぎっしり詰まった段ボールが残されている。
 ……どうしよう。
 捨てるわけにはいかない。……警察に、余ったのでと話し、引き取ってもらうべきだろう。
 ……警察にも、そんなにたくさん必要ですかって、言われたんじゃなかったっけ。
 それを私が得意気に法語で演説して、その倍を用意させたんだ…。

「……どうか。」
「え?」
「……調子は。」

 ガートルード上級補佐官だった。
 この1週間、彼女をここで見掛けたことはない。
 つまり、彼女はこの駅の利用者ではないのだ。……わざわざ自分の様子を見に来てくれたのだ。
 彼女はすっと手を差し出す。
 ……私は、いつの間にか握り締めて、歪めてしまっていた啓発ティッシュを差し出す。
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 彼女はそれを受け取り、…ダンボールの中に、まだたくさん残っているのを横目に見た。
 ………何も言わなかった。
 いや、あの日と同じかもしれない。
 敢えて言葉で語らず、……無言で私を諭そうとしている。

「……子供のころに描いた夢は、子供の夢でしか、ない。」
「…………………。」

 私の履歴書を読んだのだろうか。彼女は私の志望動機が、それであることを知っていた。

「……現実はいつも、理想とは違う。」
「…………反論の余地、無き也や。」
「……理想を変えるか、自分を変えるかしか、ない。」
「……………………。」

 私は配属の初日から、……ずっとずっと裏切られてきた。
 憧れの仕事に就いたのに、……それは子供のころの夢とまったく違っていて。
 だからこそ、それでもなお、その夢を叶えたくて、……現実を無視した。
 ……そう。私の想像していた仕事など、……きっとテレビの中だけなのだ。
 子供の頃にドラマで見た異端審問官に憧れ、……そのドラマの世界を夢想し、現実から一切目を背けて来た……。

「……2つある。」
「何が也や…。」
「……世界を変えるか。」
「………………。」
「……自分を変えるか。」
「無理と、……知り給え…。」
「……どっちが?」
「どちらも、……也や。」

 自分ひとりが青臭い非現実的な理想を振りかざしたところで、誰も同調してはくれない。
 そして、……そんな理想という名の、子供の夢という揺り篭から、一度も降りずにここまで来てしまった自分を、……今さら変えることなど出来やしない。
 世界がすべておかしいのと、自分がおかしいのは同じ意味だ。
 おかしい自分を正すことは、世界すべてを正すのとまったく同じこと。
 決して出来やしない。
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「……貴女は、向いていない。」
「何に、……也や。」

 この仕事に? 理想に? あるいは現実に?
 上級補佐官は、……答えない。
 あの日と同じに、……沈黙をもって、静かに自問を求めるだけだ。

「……正座。」
「え?」
「……座りなさい。」
「こ、…ここで也や?」
「……正座。」

 雑踏の中で、ガートルード上級補佐官は、ぺたりと正座する。
 私は、叱られるべきであると思い、……それに習い、正座した。
 何をどう叱られるのだろうと身構えたが、何も、口にしない。
 無言の沈黙で、……私に自問を促すだけだ。

 するとおもむろに、……指を一本、立てた。
 一つ、お話があるという意味……?
 違う。……指差す方を見よ、という意味だ。
 どこを指差してる? ………上……?

「……………。」
「……お月見。」
「………………………。」

 真っ白でまん丸な月。
 多分、今、……部署の全ての同僚たちは、同じ月を見ている。
 だから、多分、明日。朝。
 昨日の月は本当に綺麗だったねぇ、と、合言葉のように交し合うのだろう。

 私はお月見の会場にはいないけれど、………その合言葉にだけは、…加われるかもしれない。


「……謹啓。謹んで、申し上げ奉る。」

 ガートルード上級補佐官が、法語で、語る。
 私の心に、最も直接伝わる言葉で、語る。
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「……夢も、理想も。その実現も。……連帯なくして、成り立たないと知り給え。」
「…………………。」
「人は、理想には、耳を貸さない。」
「謹啓、……謹んでお尋ね申し上げ奉る。……なれば、如何にして理想は叶えられるもの也や…。」

 その問いに、上級補佐官は、静かに答えた。

 人は、理想には、耳を貸さない。
 人は、他人には、耳を貸さない。
 人は、友人には、耳を貸さないこともない。

 そして友人が理想を語ったなら、力を貸さないこともない、かもしれない。

 どんな大層な理想も、誰の心にも届かなければ大言壮語。
 心に届くには、どうすればいい……?
 心と心が、交流していなくてはならない。
 どんな理想も、その前に。
 ……コミュニケーションがなければ、伝わるわけもないのだ。

 私たちは夜の駅前の雑踏の中で二人、……正座し、月を見上げている。
 雑踏を行き交う人々という林の中で、なぜかとても静かに感じられる、お酒もお団子もない、……不思議なお月見だった。

 私は社会人として、未熟かもしれない。
 協調性のない、典型的な“若者”というものなのかもしれない。
 それを、高い志で振りかざす分だけ、さらに性質が悪いのかもしれない。

 ……私が、多分、ずっと昔から、何かを間違えている。

 辞める?
 このご時世に、辞めてどこに再就職を?
 せっかく堅いところに就職できたのに……。
 ここを辞めて、人生を再設計できる時間なんて、とっくにない。
 人生が再設計できる時間なんて多分、中学校を卒業した辺りの頃で、とっくに失われているのだ。
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 でも、……私の情熱って、そんなものだったのかな……。
 でも、……私の情熱って、そんなものだったのかな……。
 勘違っているとしたって、……信じた理想のために、ここまで来たんじゃなかったっけ……。

 ガートルード上級補佐官が、職場に残ったダンボールを引き取ってくれることになった。
 これで、職場へは迷惑をかけずに済む。
 彼女はどういうわけか、あらゆる経緯をすべて知っていたのだ。
 後に、私の係長が彼女の知人で、その身を案じて、相談に乗るように頼んでいたことを知る。

 彼女も変わり者で、新人の当時に、相当の苦労があったという。
 そんな彼女でなければ、私の心に言葉は届かないと思ったのだろう…。

 理想も、現実も。自分も、世界も。
 全てを併せ呑む器量がなければ、……何一つ、成し遂げられない。
 それが多分、大人というものなのだ。
 
 そこまで完成されて、ようやくなれるのが、異端審問官というものなのだろう。
 ……そしてそれは、私のような未完成な人間には、とても相応しいものではない。
 私は、…………子供の頃の夢の、一番純粋で未熟だった部分にその日、……ようやく決別をすることが出来た。

 いや、決別とは言いたくない。
 再出発だと、そう自分に言い聞かせた。
 異端審問官を目指しはする。でも、なれなくてもいい。
 それよりも前に、……大人として、自分を完成させたい。
 そして、もしそれを成し遂げられたなら、……いつかは再び、幼い日の夢をもう一度思い出してもいいだろう。
 私はそれを彼女に告げ、その夜を終えた。
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「おー、すごいね。あのダンボール、一人で全部配りきったの。」
「……む、…無理、でした。」
「お、口語?」
「…………慣れないので、恥ずかしい…也や…。」

 ほほ笑む係長は多分、上級補佐官から顛末を聞かされている。
 彼女に話した私の幼い夢と、現実との軋轢、そして再出発の決意も、知っているだろう。
 自分の胸中を全て透かし見られている気がして、とても恥ずかしかった。

「人はねぇ。年齢や就職で大人になるんじゃありません。その後の人生をね、じっくりかけて。円熟させて行って。大人というものを探すものなんです。……コーネリアちゃんは若いから、いつも何かに間に合わないかのような焦燥感に脅かされてるかもしれないけれど。そんなことはないよ? 人生なんて、ホントに長いんだから。」
「……………。」
「いつか、君のなりたい自分になれるといいねぇ。」
「…………はい。」

 いつもと何も変わらない、退屈で希薄な職場が、……ほんの少しだけ、和らいで見えた。

「君はお弁当でしたっけ? 明日のお昼は、係のみんなで、近所のお寿司屋さんにでも行ってみませんか。」
「………ぇ、……ぁ…。」
「じゃあ、決まりで。明日はお弁当、持って来ちゃ駄目ですよ。あと、プロジェクトのまとめを、課長に出しておいてね。あと、お茶をもらえる?」
「は、はい……、……也やっ。」

 これは、コーネリアがアイゼルネ・ユングフラウに所属になるより、ずっとずっと前の物語………。







                             <おしまい>
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 オチ。



「……こんなに大量のティッシュ、いらないデス。」

 ドラノールの決裁箱に、山ほどのティッシュが積み上げられている。
 ガートルードが同僚たちに大量に山分けした、そのお裾分けの一部だ。

「……お裾分けです。あれば役立ちます。……お茶を零した時、拭いたり、零したお菓子のクズを拭いたり、鼻をチンしたり、ほっぺについたケチャップを拭いたり。いずれも上司ドラノールには必要です。」
「必要ないデス。お子様扱いデス。いらないデス。大きなお世話death。」

 先日のケチャップの件がまだ尾を引いているので、ドラノールは頬を膨らませて憮然とする。

「……なら、それはティッシュではなく、書類です。ですからご決裁をお願い申し上げ奉る。全部のティッシュ一枚ずつ全てにハンコをお願いするもの也。」
「ハンコッ! 嫌デス、デスデス。デスデスデス…!!」

 ドラノールは全身の毛を逆立ててる。全身にジンマシン。
 ドラノールは管理職のくせに、ハンコ恐怖症だ。一日、ハンコを押すことなど、苦行を通り越して拷問だ。

 ガートルードは、あの若い新人を思い出している。
 そして、自分にもそういう日があったことを、ほろ苦く思い出している。
 情熱を、自分はいつの間にか忘れてしまっていただろうか。
 自分はいつの間に、大人というものになってしまったのだろうか……。

「付いてないデス。今日はケチャップも青海苔も大丈夫デス!」

 いつまでも子供な上司の頭を、つい、わしわしと撫でてしまうガートルードであった。

 …………。
 異端審問官の主席が、一番、大人から程遠いような……。

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