EP8名場面集
・「私は老いた。………老いて最初に理解したのは、“知る”ことより“知らぬ”ことのほうが貴重であるということだ。」
「年寄り臭そうな話だけど、付き合ってあげる。……どういう意味?」
「“知る”ことと“知らぬ”こと。この二つは不可逆的な関係だと言うことだ。」
「そうね。……“知らぬ”から“知る”に移ることは出来ても、“知る”から“知らぬ”には、移れない。」
「それを理解した時。……私は、知らぬことに宿る処女性にも似た高潔なる純粋さを理解したのだ。」
・「私は一つの物語を、もっともっと深く長く、楽しむことが出来たかもしれない。……退屈から逃れるために、星の数の物語を食らい尽くしてきた私は、そもそも初めから、物語を喰らってなどいなかったのだ。……ただ、殺していただけ。……結局は、それが私をも殺すのだ。」
・「私は、真実を知らぬことを敢えて選ぶ方が高潔であると、千年を生き飽きた末に思う。……しかし、百年を生きぬ緑寿に、その価値観を押し付けるのも酷であると、今、理解した。」
「重い十字架、背負っちまったなァ。今じゃあんたに同情してる。ホントだぜ? だって、全部、金蔵が悪いんじゃねぇか。あいつが、隠し子なんか作るから悪いんだし! 何しろ、お前への預け方が特に悪い! 子どもが生まれないから養子にしろっ何てのじゃなく、可哀想な子だから育ててくれぬかとか、そなたを傷つけぬ言い方はあったはずだ。これだから男は、金蔵は…!」
「…………………………。」
「もはや、恨みはない。それでも、そなたの十字架は軽くはならぬか。」
「はい。……あなたにどうすれば償えるか、未だにわからないのですから。」
「んじゃ、こうしよう。両腕を広げよ。」
「え、……え? こ、……こうですか……?」
おずおずと夏妃が両腕を広げると、そこへベアトが飛び込み、夏妃をぎゅっと、抱き締める。
「……あ、あの、……こ、これは………。」
「二度と言わねぇから、一度くらい言わせろよ。……妾はよ、自分の母親に会ったことさえねぇんだからよ。」
ベアトは夏妃を抱き締めながら、小さな声で言う。
もう二度と、絶対に口にしない言葉を、夏妃に言う…。
「妾のことで悔やんでくれてありがとよ。……でもよ、妾はもう恨んでねぇからな? それだけは信じてくれよ。…………カアサン。」
「……べ、………ベアトリーチェ……………。」
そして枕元に置かれたのは、金蔵からの贈り物の、タワシ。
縁寿は、むにゃむにゃと言いながら、それを頬に抱き締める。
「……ファンジターじゃねえってなら。……聞こうじゃねぇか。お前らの推理。」
「皆さんのご高説、とても楽しみデス。」
「……待ってたぜ。……退屈だったか.忘却の深淵とやらは。」
それに答える、笑い声。
……あぁ、そうだな。その笑いだけで充分だ。
「元気そうじゃねぇか。」
「………退屈ではありませんでした。……だって、信じてましたから。」
「だろうな。……俺も、信じてたぜ。」
戦人は羽織っていた領主のマントを脱ぎ捨てる。
マントなど、邪魔でしかない。
そしてそれは、最後の客人を持て成すのに、失礼にあたるのだ。
「あの暗い深淵は。……次にあなたに再会できたなら、どんなミステリーで戦ってやろうかと思案するには、実に丁度いい場所でした。」
「この水晶の檻は、俺たちの決闘のリングってわけか。逃げ場なしのチェーンデスマッチってわけだ。」
「……思えば私たち。いっつもチェーンの密室を巡って、戦ってましたね。」
「なら、そうするか。まさにチェーンデスマッチってわけだ。」
「私に準備はありますが、あなたはどうです?」
「……あるさ。……言ったろ。俺も信じてたって。」
二人は同時にミステリーを振りかざし、互いに相手をチェーン密室で封印する。
「来いっ、古戸ヱリカぁああぁああぁああぁああぁああああああ!!!」
「楽しませてもらいますよっ、ぶわッとらすァんんんんんんんんん!!!」
二人は同時にチェーンで施錠した密室に閉じ込められる。
無論、内側からチェーンを開け閉めするのは容易い。
しかし、相手のチェーン密室に踏み入るには、困難なことだ。
二人は、互いに同時に、相手をチェーン密室で殺し合う。
チェーン密室で推理を戦わせた二人にこれ以上なく相応しい、決闘の密室だ。
「古戸ヱリカは自殺である、事故死である、病死である、他殺以外のあらゆる理由による死亡である!!」
「自殺じゃないですッ、事故死じゃないですッ、病死じゃないですッ、ちゃあんと私はあなたに殺されますよ、戦人さんッ!!!」
「扉の隙間よりの毒ガスによる殺害である、部屋に注水しての溺死である、部屋の空気を枯渇させての窒息死である!!」
「毒ガスではありませんッ、溺死でもありませんッ、窒息死でもありませんッ!!」
「はははは、あっはっははははははははは!! 密室殺人に毒ガス? 溺死? 窒息死ィ?! クスクスくすくすあははははははははははは!!」
「可笑しいだろ? 面白ぇだろ?」
「グッド!! 右代宮戦人は自殺であるッ、事故死であるッ、病死であるッ!!」
「赤き真実ッ!! 右代宮戦人は刺殺である!! 凶器はナイフ、背中にザックリなんてどうだ?!」
「グッド!! 古典密室はそうでなくては!!」
「ならお前もやってみるか?!」
「受けて立ちましょう、赤き真実ッ!! 古戸ヱリカは刺殺であるッ! 凶器はナイフ、背中にザックリ!!」
「面白ぇ!! お前の密室、ブチ破ってやらぁあああぁああああ!!」
「グッド! 本当に楽しいですねぇ、戦人さん…!」
「悪いが、今はお前と遊んでる暇がねぇんだよ!」
「こちらこそ悪いですが、真実の魔女の同志、縁寿さんの邪魔をさせるわけにはいきません。」
「……そういや、お前も真実の魔女だったな。なるほど、縁寿の先輩魔女ってわけだ。」
「一なる真実!! それこそが至高にして究極!! それに至る全ての障害を打ち破ることの出来る魔女こそが真実の魔女です!」
「そんなにも一なる真実とやらが大事か…?! 世の中には知る必要も価値もないものだってたくさんある。縁寿にとって1986年にどれほどの意味があるってんだ! 何もない!」
「くっすくすくす! ないでしょうね! 1986年に何があったってなくたって! 1998年に生きる縁寿さんには何の変化もない! それが知ることの無意味さです。ですが、1つだけ変えられることがあります。」
「それは何だ。」
「どう生きるかです!!」
「頭を冷やす? 私がッ? ………あんたたちが一なる真実を私から隠すからでしょうがッ!! だから私はあんたたちに抗う!! これは権利よ!! 私には、右代宮家の最後の一人として、真実を知る権利があるッ!」
「そうだ。だからこそ、この最後のゲームなのだ。」
「……そうね。この最後のゲームが与えられなかったら、私には真実に至るチャンスさえ与えられなかった。その点についてだけは、私も感謝しているわ。」
「1986年に何があったのか。何が親族を、そして家族を奪ったのか。それを知りたいと願うそなたの気持ちは、ニンゲンとしては真っ当なものだ。……しかし、それを理解してなお戦人は、そなたが1986年に回帰するべきではないと思った。」
「お兄ちゃんの言いたいことはわかるわよ…! 過去を振り返らず、未来を見て生きろとか言うつもりでしょ?!」
「そうだ。それを戦人は、この最後のゲームを以ってそなたに伝えるつもりだった。」
「なら、答えは早々に出てるわ。ノーサンキューよ、黄金の魔女…! 私は1986年にもう死んでいた。その後、12年間も亡霊としてひとりぼっちで彷徨ったわ…! そして絵羽伯母さんが死んで、私が亡霊としてさえ、地上に留まる理由がなくなった! だから、最後に一つだけ、自分が本当にしたいことをして死のうと決めたの!!」
「それが、1986年の真実を知ることだというのか。」
「そうよ、悪いッ?!?!」
「あぁ、悪いぞ愚か者!! ではそなたは真実に至ったなら、死んでしまうということ…! ならば至らせるわけには行かぬ…!! どこまでも煙に巻いて、そなたを生き延びさせねばな! 戦人はそなたに生きることを望んでいる…!!」
「真実のない生なんて、死んでいるのと同じよ!! 私は、生きるために知ろうとしている!!」
「そなたは今、死ぬために知ろうとしていると言ったぞ。」
「あぁ、そうね。じゃあ言い直す…! 私は死ぬために知ろうとしてるの!! そして自分の命と引き換えに、ベルンカステルと契約したのよ!! あの日に何があったのか知るためにね!! 一なる真実は、私が自ら手にする冥土の土産なのよッ!!!」
「本来は、そなたに与えた鍵にて、そなたに未来を選ばせるゲームだった。」
「嘘だわ。こうして礼拝堂に隠して、私にはあんたたちの望む、前向きな未来の扉とやらでも選ばせるつもりだったんでしょう。……そんなのは選択じゃない! 押し付けだわ!!」
「親は子の選択肢から、不適当なものを間引く権利を有す。」
「私は子供じゃないわ!! 自分で考えて行動できる、18歳の女よ…!!」
「たわけがッ!! 過去のこと以外、何も考えることが出来ぬ6歳の小娘であろうが!!」
「誰のせいでよッ!! あんたのせいで、……私はいつまでも6歳のままなんじゃない!! 真実を覆い隠すあんたの幻想を、今こそ打ち破るッ!! そうね、思えばあんたは、今こうして礼拝堂に私を閉じ込めてるんじゃない! 1986年のあの日から、ずっとずっと……、私はあんたのせいで孤独で誰も真実を教えてくれない密室に閉じ込められているのよ!!」
「あんたの密室を、……今こそ、私は自らの手でッ、打ち破る!! ……あぁ、駄目ね、全然駄目だわ。@わかったわ、あんたの完全密室のトリック!!
復唱要求ッ!! “私を密室に閉じ込めてから、直ちにあんたは私を殺害している!”」
「…………! 拒否する。」
「そうよ。……あんたは、私を18年掛けて殺すのよ。ありがとう、ベアトリーチェ。……それを思い出させてくれたお陰で、あんたが私を殺す密室殺人のトリックがわかったわ。」
「…………縁寿。そなたは未来ある若者だ。そして、未来に生きる黄金の魔女ではないか。ならば未来にて生きよ。過去の真実にどれほどの価値がある? そなたが自ら生み出すそなたの未来の真実の方が、よほど価値があるだろうに…!!」
「私の人生なんてクズよ。家族は私を残してみんな死んだわ。だから、一なる真実を手土産に、私はみんなのところに帰るの。」
「真実を知れば、家族の死を受け入れることになるだけだぞ…! ひょっとしたら、家族の誰かが生き延びていて、再会できるかもしれない奇跡に託して生き延びようとは思わぬのか…!」
「安心して。奇跡の魔女でさえ、そのカケラを見つけられなかったから。」
六軒島の大爆発で、親族の遺体はほとんど発見されなかった。
それはひょっとしたら、……爆発を逃れて生き残ったことを示すのかもしれないと、それを生きる糧にした日もあった。
しかし、それだけを糧にするには、12年は長過ぎる。
「だから私は、真実を知りたいと思いながらも無意識の内に、真実から目を背けていた。……家族の死をはっきりと理解することで、誰かが生き残ったかもしれないという奇跡を、自ら否定してしまいそうで。………でもね、もうそういう、ありもしない奇跡にすがって生き延びるのには飽き飽きしたの。
だから、私は家族の死を受け入れることにした。どのような真実であろうとも認めようと思った。だから、私は真実の魔女となった…!!」
「……過去の真実に目が眩み、自らの未来が見えなくなった者の、何と愚かなことか……! 許せ、戦人。……そなたの妹を、正しき未来に導くには、妾は力が足りなかった…。」
そう、今だからこそ理解できる。
私は自らの命と引き換えに、……ベルンカステルにあの日、1つのことを願い、1つのことを諦めたのだ。
願ったのは、真実を覆い隠す幻想への、復讐。
そして今こそ私は幻想の主、黄金の魔女を打ち破って一なる真実の書を手に入れ、その復讐を成し遂げた。
諦めたのは、家族が誰か帰ってくるかもしれないと信じ続ける、甘えた心。
だからこそ私は、今こそこうして、家族が皆、死んでしまったことを受け入れることが出来る。
「……知らなきゃ生きてることに出来るの? あんたたちの言う猫箱というのは、死体を隠せば生きていることにしてもいいという、甘えた妄想だけがたった一つのトリック!
でもね、隠したって、死んでいることは変わらないのよ…!!」
「遠いお空の国で、いつまでも見守っているなんて、そんなおとぎ話みたいなので私の傷が塞げると、本気で思っているの?! 私は真実の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ!! 起こらぬ奇跡を待って亡霊のように生きる日々から、私は真実に至った高潔なる殉教者として生を終えるのよ…!!」
「……そなたは真里亞の魔導書より、魔法の力を理解したのではなかったのか……。」
「えぇ。@理解したわ。そして何て無力なものだろうと絶望したわ。……そしてそれが、お兄ちゃんが私に押し付けようとしていることなのよね。……私が信じれば、魔法があれば、……いつだって、家族は私の側にいる。」
「………馬鹿にしないでッ!!! そんな魔法で、そんな幻想で白昼夢でッ、……私の12年が癒えるの?! そしてこれから未来の数十年をどう生きてけるの?!
誰か帰ってきてよ、誰かッ!! でも誰も帰ってこない!! じゃあせめて、あの日、何があったのかだけでも教えてよ!! それは教えてくれるそうよ、ベルンカステルが…!!」
「あぁ、我が主よッ、今こそ一なる真実の書を手に入れました…!! 今からこれを持ち帰りますから、私に真実をお与え下さい!! 家族が生きているかもしれないという甘えた奇跡を捨て去る覚悟は、もうとっくに出来ています!! 私に今こそ、あの日の真実を教えてぇえええぇえええええぇええぇえぇ!!!」
くすくすくす、……うふふふふふふふ、はっははははははは…!!
何が真実よ、馬鹿馬鹿しいわね、下らない…!
それが真実かどうか決めるのは私よ?
赤き真実だって、そんなの私は認めない、許さない、絶対に納得したりしない…!!
「赤き真実は絶対?! 誰にとっての絶対?! あんたたちにとっての絶対でしょ? 私にとっての絶対じゃない! 私の真実は、あんたたちの真実に、穢されたりなんかしないッ!!」
「縁寿、落ち着いて? 知りたいと願ったのはあんたでしょう?」
「ははははは、あっはははははははははは!! 私の真実は絵羽伯母さんが犯人!! 絵羽伯母さんがみんなを殺したのよ!! 悪いのは全部絵羽伯母さんッ!! お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、みんなみんなただの犠牲者…!! 誰も悪くない誰も悪くない…!! だってそうじゃない、だってそうじゃないッ!!」
――伯母さんはいつだって、縁寿ちゃんの味方よ。
「はははは、あっはっははははははははははッ!!! あぁ、わかったわ、あんたの言葉の意味ッ!! うふふふふ、あっはははははははははははは!! そうよ、絵羽伯母さん、あんたが犯人よ、あんたが犯人!! それを認めない世界の方が、おかしいのよ壊れてるのよ…!! 正しいのは私ッ、私は赤き真実を、世界の全てをッ、否定する…!!!」
「………そう。……じゃあ、あんただけに記せる、赤き真実を記してご覧なさい。……でも、ニンゲンはどうやって赤き真実を記すの?」
「あるわよ!! ニンゲンにしか記せない、真っ赤なインクがあるじゃない!!」
縁寿さん、落ち着いて下さい。
「正しいのは私ッ!! 間違ってるのは世界!! 私が記してあげる!! 本当の赤き真実で、私が真実を記してあげるッ!! はっははははははは、あっははははははははははははッ!!」
20、屋上ッ、支援大至急!!
縁寿さん!! 待ちなさいッ!! 早まるなッ、危ないぃいいいいいいぃいいい!!!
「グッバイ縁寿、ハバナイスディ。」
「記してあげるッ、これが私の記す、真っ赤な真実ッ!! お前たちの世界など、私は受け入れるものかあぁあああああああああぁああぁあぁあッ!!!」
「……親父殿に代わって、私がお相手しよう。」
「おや。無能投資家の大先生ではございませんか。よくもまぁ、儲からない話ばかりを見つけて散財なさるものです。」
「失礼、靴紐が解けてはいないかね。」
「え?」
つい下を見たヱリカの目に入るのは、……蔵臼の左拳。
「ッ?!?!」
蔵臼の左アッパーカットが、ヱリカを浮かす。
魔法ではなく、物理法則に従って確かに浮かす。
ヱリカは刹那、確かに月を見た……。
「私は投資家としては無能だろう!!だがッ、ボクサーとしての才能はッ、大学時代の友人達が証明するだろう!!お前如き小娘に、我が右代宮の全てを否定するなどッ、この右代宮蔵臼が許さんッ!!」
「こッ、のッ、……ド雑魚がぁああああああああああぁああああぁあッ!!!」
「きっひひひひ! そうだね。確かに真里亞たちは死んでいるかもしれない。でもね、だからって誰にも、真里亞たちのことを批判することは出来ない! 真里亞とママの愛は誰にも否定できないんだもの…!!」
真里亞は歯を見せて笑いながら、手元も見ずに素早くそれをこなす。
そして全弾の装填を終えたライフル銃を、ぞんざいに真上へ放る。
「………来なさいよ。」
真里亞と背中合わせに立つ楼座が、それを振り向きもせずに宙で受け取る。
いや違う。宙に手を広げていたそこへ、互いが見向きもせずに正確に銃のやり取りをしているのだ。
冷え切った引き金を人差し指でくすぐりながら、……楼座は俯きながら言う。
「私と真里亞の、………愛を疑うヤツは、前へ出なさいよ。」
山羊たちの群れは、凄まじき楼座の気迫に気圧され、……それ以上を近付けない。
「じゃあ、私が否定してあげます。……浮気性のあんたは、いつだって男のところを遊び歩いて、真里亞をひとりぼっちにしてました!!」
「真里亞の日記には、そんなこと、一言も書いてないもん。きっひひひひひひ。」
「あ、あんたが一番知っているでしょうが…!! 楼座はあんたを愛してなんかいない! 生んだことさえ後悔してる、クソッタレな母親じゃないですかッ!!!!」
ヱリカは酷薄な空に月を見ながら、……鉄の味を覚えた。
自分が、どういう状況になったのか、一瞬、理解できない。
背中いっぱいの冷たい感触は、……地面?
え? ……私、……いつの間に、横になってたっけ……?
それに月は満月じゃなかったっけ。どうして、いつの間にか欠けてるの…?
っていうか、……歯、痛い。……何か、冷たくて、硬い。
そして気付く。
自分が口中に銃口をねじ込まれて、地面に組み伏せられているのを。
そして満月を割っているのが、………子連れの、怒れる狼の王であることを。
「…………がは……。」
口中の銃口が炸裂して延髄を粉々に打ち砕く。
……しかしそれは残像。
「恐ろしい女です、こいつ、本当にニンゲ、…………、」
残像を残して、九死に一生のところで瞬間移動して逃れたヱリカの眼前には、金属の鋭い閃きが、……ヱリカが現れるより前から待ち構えていた。
万年筆の一撃がヱリカの眼球を潰して貫く。
無論、それは残像。
しかし、さらに逃れた先でも、ヱリカが現れた瞬間にはすでにもう、踵が……。
だからそれは、山羊たちから見たら、……一瞬の間にヱリカの残像がいくつも現れ、……それらが全て同時に、楼座に打ち抜かれたように見えた……。
「………次に言ったら、本気で殴るからね。」
「ママは強いんだよ、きっひひひひひひひひひ!!」
「…………わ、……ッけわかんな……。」
だから、もうヱリカは現れられない。
少なくとも、楼座の攻撃半径の中には。
ヱリカは楼座の間合いを大きく逃れ、空にその姿を現す。
「……こいつらッ、………何なんですかッ?! わけが、……わからないッ!! …………ッ?!?!」
「行きますよ。同志緑寿。」
「……気持ち悪いから、緑寿でお願い。」
「じゃあ、私のことはヱリカさまでお願いします。」
「……行きましょ、同志ヱリカ。」
「…………あちゃー…。……最初はパーだから、チョキ出してひとり勝ちしてやろーって思ったのに。……やっぱりパーはパー出してなきゃ駄目ね。」
・振り返ると、猫の目とラムダデルタの目が、合った。
ラムダデルタはにっこり微笑み、小さく手を振る……。
轟音を共に、激しい閃光がいくつも瞬く。
「何事…? ………ッ?!?!」
次々に閃光の連鎖爆発が巻き起こり、ベルンカステルとその使い魔たちの群を瞬時に全て飲み込んでしまう。
・「……あら、ラムダじゃない。………あなたとはパーティー会場で会いたかったわ。」
「愛してるわ、ベルン。愛を囁くなら、二人きりの方が素敵でしょ?」
「……それは、あんたの両手両足をもいだ後に、ゆっくりと聞かせてちょうだい。」
ベルンが顎をしゃくらせ、使い魔たちに攻撃を命じる。
「私の愛しい愛しい、たった一人の友人よ。両腕の肘から先。両足の膝より先。自由に食い千切って構わないわ。それ以外には傷一つ許さないわよ。」
猫たちの群が、再びうねって一つにまとまり、図書の都に紛れ込む哀れな犠牲者を飲み込むエメラルドグリーンのリヴァイアサンの姿を作る。
それは、巨大な巨大なクジラの姿。
しかし、ラムダの目にはクジラの姿は見えただろうか。
ただただ、全てを飲み込もうとする巨大な顎しか見えなかっただろう。
「あぁ、素敵。私をベルンの愛で飲み込んでくれるのね?!」
「……愛してるわ、ラムダ。あんたの手足をもいだら、おしりから鉄串で貫いて、私のベッドに飾ってあげる。そして毎朝、目覚めのキスを、そして毎夜、お休みのキスをしてあげるわ。」
「本当に素敵ッ! じゃあ、私もあなたを愛で包んであげるッ!!!」
しかし、ラムダデルタのその叫びは、光ってうねるリヴァイアサンに、バクンッと飲み込まれる。
「………くすくす。あぁ、素敵よ、ラムダ。あんたのその、向こう見ずで命知らずで、ほんのりパーなところが大好きだわ。…………………?……風…?」
ラムダデルタを飲み込み、勝利を確信したのと同じ瞬間に、ベルンカステルは自分の髪を撫でる風を覚える。
先ほど、ラムダデルタが無数の花火と共に飛び散らせて、空間をクリスマスパーティーのように彩って漂っていた無数の菓子が、……流れている。いや、……ある一点へ向けて、収縮されているのだ。
それはまるで、巻き戻しで見る花火。
リヴァイアサンの、閉ざされた巨大な口中目掛けて、無数の菓子が爆縮しているのだ。
内なる一点へ集中する、巨大な逆爆発。
あるいはそれは、無数の菓子が一斉にザアッと、リヴァイアサンに全方位からの弾丸を降り注いでいるようにも見えた。
……エメラルドグリーンの塊の奥に、……黒い渦を見る。
その渦は、手の平の上にあった。
ラムダデルタが不敵に笑う、手の平の上にあった。
それは超重力の塊。
全ての菓子も、猫もクジラも、全て全てを一点に凝縮して吸い込んで、点にまで潰す。
「抱き締めてあげるから。……いらっしゃい、ベルン!!!」
「……私を、……吸い込む気ッ……?!」
ラムダデルタが無数にばら蒔いた菓子の全てが、超高速で彼女の手の平の上のブラックホールに全て吸い戻されているのだ。
押し寄せる菓子の逆爆発に、リヴァイアサンは内側へ内側へ、削り取られ、押し潰されていく。
「………ラ……ム…ダぁ……ぁああぁ……ぁぁぁあぁ…!!!」
「ほら。……抱き締めてあげるから、おいでなさいよ。」
超重力に逆らおうと、力の限りを尽くして空間に踏み止まるベルンカステル。
その表情から初めて、見下す余裕が失われる。
ラムダデルタの不敵そうな表情にも、額に汗が浮き出ている。
・「………逃げなきゃ……、………私、……本当に…………。………ッ?!?!」
ベルンカステルの目に飛び込んでくるのは…、……巨大なプレゼントボックスを核とした、……菓子の群をまとう巨大な彗星が自分目掛けて……突っ込んでくるところだった。
「ラムダぁあああああああああああぁあああああああああああああぁッ!!! うぉおおおぁあああああああああああああぁあああああぁああぁああああああッ!!! ごああああぁああああああああ、か、体、が、ぁ、あああああああああああああぁああああああああああああぁあ!!」
菓子の巨大彗星がベルンカステルを、その絶叫ごと飲み込む。
彗星は粉々に砕け散り、瞬く間に爆縮して超重力の穴に吸い込まれていく。
そして全てを集めて玉のようにすると、今度はそれをぐるぐると超高速で回転させる。
それは遠心力で扁平し、まるで銀河系のような形になった。
無数の猫たちも、その主のベルンカステルも、全て全て飲む込み、今やラムダデルタの手の平の上で、エメラルドグリーンの銀河系となって、うねって瞬く。
それはさらに超重力の穴によって、どんどん圧縮され、………最後には緑色に輝く一粒の、金平糖に姿を変えてしまう。
そして、ぽとりと。彼女の手の平に落ちた。
「ごめんね、ベルン。……あなたといつまでも遊んでいたいから、いつもは必死なフリして程々で遊んでるけど。」
ラムダデルタは、手の平の金平糖を摘み上げて、天にかざすようにして見詰める。
「私、本当はどうしようもなく強いのよ。………ごめんね。」
そして、……その金平糖を、ピンク色の唇に近付け、……そっと口付けをしてから、……ガリガリと噛む。
「…………ベルンの味が、しない。」
ラムダデルタは、ぺろりと指先を舐めると、……ゆっくりと後ろの虚空に振り返る。
「………知ってたわ。愛しいラムダ。」
「あぁ、愛してるわ、ベルン……。」
「嘘よ。………あんたがいつだって、………私に本気じゃないって、知ってたわ。」
「じゃあ。……本当に、愛し合いましょうよ。………お互い、本気で。」
「あぁ、愛してるわ、ラムダデルタ。……嬉しいわ、……本当に嬉しいわ……。」
「あぁ、愛してるわ、ベルンカステル。………あんたを飴玉に変えて、永遠に私の舌の上で可愛がってあげる。」
「どちらが勝っても、私たちは愛し合えるのね。くすくすくす、あっはははははははははは!!それって本当に素敵だわ、それって本当に素敵…!!」
「さあッ!! 愛し合いましょうよッ!!!」
「すまぬが、」
そこで、世界の時間が停止した。
「そなたの脚本は採用しない。……なぜなら。」
時間が止まったというよりは、……本を捲るのを停止した、という方が正しい。
制止した世界に、……ぎっしりと文字が浮かぶ。
「この先の脚本を記すのは、私であるからだ。」
それは、たった今まで紡がれていた、物語だ。
“『フェザリーヌ・アウグストゥスッ、アウアウローラぁあああああぁああああ!!!』”
“ラムダデルタが渾身の、魔力の塊を振り上げる。”
文章は、そこで終わっていた。
その制止した世界で、フェザリーヌは腕組みをする。
「……参ったものだ。……戦いを描くのは久しぶりでな。……唐突にこのような展開で筆を預けられても困るというもの……。」
私は執筆で行き詰まった時は、逆行して書くことにしている。
つまり、冒頭から順に書いていくのではなく、終わりから遡って執筆していくのだ。
こうすれば、伏線も張りやすいし、ラストのビジョンを明確に物語を描ける。
……弱点は、話の組み立てもなく、いきなりクライマックスを描くのが案外大変だということだ。
「……とりあえず。戦いの顛末から遡って書いていこう。……ラムダデルタ卿。そなたは私に敗れ、息絶える。」
フェザリーヌがそれを宣言すると、制止された世界に浮かぶ、巨大な文字が、そのように追記される。
ただし、それは顛末からの執筆なので、先ほどの文末からは、大きく空白を開け、彼方に執筆している。
「……どんな姿でそなたは破れるのであろうな。……そなたの勇敢さに相応しい、勇壮な最期が良いだろう。……こうはどうか? よくわからぬが、何かに飛ばされて本棚に叩き付けられ、四肢がばらばらに砕け散り、息絶えて暗闇に墜落して消える。……うむ。中々派手な最期であるな。………よし。これでとりあえず、そなたの最期は決まった。」
フェザリーヌが語る筋書きが、再び空間に追記される。
それと同時に、ラムダデルタの姿が掻き消えた。
フェザリーヌは再び腕組みをして思案した後、適当な方を指差す。
するとその指の先の本棚に、“よくわからぬ何か”に吹き飛ばされ、大の字になって打ち付れられた姿のラムダデルタが現れる。
「………さて、ここから、このような最期に至るまでの激しい戦いを執筆せねばならぬのだが。……今の私は卿も見抜く通り、少々酔いが回っている。……その部分は、今後改めて時間を設けて、じっくりと執筆することにする。」
「……今はこれにて許せ。きっとそなたに気に入ってもらえる、勇敢な戦いぶりを執筆することを約束しようぞ……。」
フェザリーヌがぱちりと指を鳴らす。
……ラムダデルタには、何が何だか、……まったく理解は出来なかった。
瞬きさえ許されず、……唐突にここにいて、本棚に打ち付けられていた。
「……何……よ、………こ……れ…………。」
彼女は、自分がフェザリーヌの“何”に殺された、それを理解することが出来ない。
しかし、それは無理もないことだ。
なぜなら、当のフェザリーヌ自身、“何”で殺したのか、決めてないからだ。
しかしラムダデルタは、ひとつだけ理解できる。
自分がもう、死んでいることだ。
彼女の口の両端から、すぅっと、赤い血が零れる。
そして両手両足の、手首や足首、肘や膝にも、すぅっと、血の筋が浮かび上がる。
それはまるで、彼女を模したマリオネットのようにも見えた。
「………私……。……何…に、………殺……され……た…の……。」
「まったくだ、ラムダデルタ卿。良いアイデアがあったら、聞かせて欲しいぞ。」
「……こ……の、………バケ……モ…………ノ…………、」
本棚に打ち付けられたまま、……ラムダデルタはがくりと、頭をうな垂れる。
手首足首、両腕両脚、そして首。
それらのパーツをばらばらにして、……彼女を模したマリオネットは操り糸の全てを失い、ばらばらと落下していく。
後には何も、残らない。
眼下の暗闇に飲み込まれて消えていった……。
「バケモノとは。……私を讃える褒め言葉の一つであるな。……くっくっくっくくくく、あっはははははははははははは。」
「………痛い…、………痛い、痛い………。」
ようやく彼女に本当の意味で、殴られた頬の痛みが込み上げてくる。
長過ぎる年月は、彼女に痛覚という概念さえも忘れさせていた。
それがゆっくりと、……彼女に蘇るのだ。
「痛いッ、……痛い痛い痛いッ、……あううぅうううッ!!」
ベルンカステルは頬を押さえて悶絶する。
数百年ぶりに思い出す痛覚は、耐え難いもののようだった。
戦人を見る。目が合う。……ベルンカステルは再び、数百年ぶりに忘れていた感情を思い出す。
「………痛いか。」
「……………ッッ!!!」
「俺の仲間を愚弄するお前の言葉の痛みは、………それを超える。」
それは、戦慄。
戦人の瞳の向こうに見えたものに、……ベルンカステルは数百年ぶりに、戦慄する。
ベルンカステルの目には、戦人が殴り掛かってくるようには見えなかった。
怒りの拳を振り上げる彼の元に、……自分が吸い込まれているようにさえ感じた。
恐怖に見開く目に、……戦人の巨大な拳がいっぱいに広がる。
戦人が放った、振り返りもしない後ろへの蹴りが、虚空を打ち抜いていた。
そこに、……腹を打ち抜かれたベルンカステルが、その姿で再構成される。
「げ…、……はッ…………………、」
「……俺たちの勇敢な仲間を愚弄する言葉を、取り消せ。」
「ぅ、…………ご……ほ……ッ…………、」
奇跡の魔女は墜落する。二度、墜落する。
一度なら、奇跡。
繰り返されるなら、それはもはや奇跡ではない。
ベルンカステルは理解する。
自分は、捉えられている……。
そして墜落し、……床に叩き付けられて、………四つん這いで起き上がり、嘔吐した。
激しく何度も嘔吐を繰り返す。
激痛と嘔吐と涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃだった。
そして怒りの表情で戦人を見上げ、………吼えた。それは戦人の方にではなかった。
「……ただ、この拳銃があるだけで。右代宮縁寿にはこの程度の推理が可能よ。如何かしら、皆様方…?」
「…………安全装置、外れてませんぜ。」
「知ってるわよ。……トカレフに安全装置がないことくらい。」
彼女は、……生き残る。
彼女を殺そうとする、巧妙に編み上げられた陰謀の渦から、……きっと生き残ったのだ。
……縁寿は舳先へ戻ると、その強い風に正面から向かい合い、さらにその先の未来を凝視する。
主を失った船は、無限の水平線へ向けて、真っ直ぐに真っ直ぐに、どこまでも進む。
その先に、彼女が本当に辿り着きたい願う真実があると、祈りながら。
その時、……ぱちぱちぱちと、拍手の音が聞こえた。
天草も船長もいないこの船上で、拍手の音が聞こえた。
でも、縁寿に驚く様子はない。
ゆっくりと、悠然と振り返るのだ。
「お見事な推理でした、同志縁寿。真実の魔女の同志、エンジェ・ベアトリーチェ。」
「……あら、いたの、ヱリカ。」
「真実を暴く者がいるならば、私はどこにでもいます。くすくすくす。」
「ねぇ、ヱリカ。」
「何です…?」
すでに船は、六軒島の脇を通り抜けている。
六軒島の島影も、今は遥か彼方。
船は無限の水平線を目指し、……どこまでも、無限の旅を続ける。
その無限の旅の始まりに、新しき真実の魔女は、同志の魔女に告げるのだ。
「………私は私なりの方法で、未来を切り拓くわ。」
「素晴らしいことです。」
「その果てに、……私が掴める真実は、あるのかしら?」
「あなたが求める真実って、今さら何だって言うんです?」
「…………………………………。」
「……………………………。」
「………ふっ。……その通りだわ。真実なんて、何の価値もないって、私は知ったわ。そして、もう一つわかったことがある。」
「何でしょう。」
「天草の、看破されて戸惑った時のあの表情。悪くなかったわ。」
「くす!」
「「グッド!」」
「お別れね。戦人くん。」
「あぁ。……またな。そして必ず。縁寿を頼むぜ、絵羽伯母さん。」
「最後くらい、エヴァお姉さんって言ってみなさいよー。」
「…………………………………。」
「またな。ヱリカ。いつかどこかで。」
「…………私も縁寿も、同じ真実の魔女でした。……なのに、私と彼女の、何が違ったのでしょう。」
「………………何だろうな。」
「私は、真実に堪える魔女でした。…でも、その真実に背を向けました。……しかし彼女は、真実を知った上で、なおも彼女の真実を信じる魔女でした。……もし、彼女の方が真実の魔女に相応しいなら。………私は、何の魔女だったのか、わかりません。」
「そうだな。………お前は、魔女じゃない。」
「…………………………。」
「だってお前は、探偵だろ。」
「……………………。………グッド。…忘れてました。」
「またいつかどこかでな。……事件あるとこ探偵ありなんだろ。」
「えぇ。右代宮家に再び事件ある時。必ず現れることを約束しましょう。」
「あばよ。名探偵。」
「さようなら。我が好敵手。あなたと再び刃を交えられる日を、楽しみにしています。」
それが、二人の最後の言葉になった。
戦人は、すぐに海へ飛び込みました。
だから、戦人は間に合いました。
まだ魔女の姿を見ることが、間に合いました。
魔女は戦人を見上げ、薄っすらと笑っていました。
言葉は、聞こえません。
でも、はっきりと聞こえました。
言ったろ、戦人。
妾は極悪な魔女だから、罪など償わぬと。
生きてなど、償わぬと。
戦人は必死に、言葉を返しました。
でも言葉は全て、泡となって吐き出されるだけでした。
漆黒の闇へ沈み行く彼女を、戦人は懸命に追いました。
そして、…………その手が、…………届きました…………。
愚かな戦人よ……。
せっかく島を生きて出られたのに……、そなたはそれを投げ出すのか……。
………俺はお前を、離さない。
気持ちは嬉しいぞ。
だが、……妾は幻想の住人。そしてそなたはニンゲン。
帰るべき世界が、違うのだ。
妾は幻想へ帰る。
そしてそなたも自分の世界へ帰るがいい。
どんどん、周りは真っ暗になっていきます。
息苦しくなり、頭や耳が痛くなります。
戦人の指が、……少しずつ、解けていきます。
そしてとうとう。
二人の指は、……離れました。
その途端、……戦人は上の、光の世界へ。
そして魔女は下の、闇の世界へ、……より強い力で引き裂かれていきます。
魔女は、戦人の体が眩しい海面へ向かって浮かんでいくのを見て、安堵しました。
さよなら。戦人。
……そして、ありがとう。
戦人の体が光の世界へ、点となって消えたのを見届け、……魔女はゆっくりと目を閉じます。
そして奈落の世界へ落ち行くことに、永遠の孤独の世界に、全てを委ねました。
その時、………彼女は、感じました。
そんなはずはないのです。
だって、戦人はもう、遥かかなたで点になっているのに。
でも、それは戦人でした。
魔女を追ってきた、戦人でした……。
逃がすかよ。お前は俺だけの、黄金の魔女だ。
………馬鹿戦人……、……馬鹿戦人…………。
お前が望む奈落になら、俺も一緒に落ちよう。
そこが虚無の世界ならば、お前と一緒に消えよう。
だが、消える最後の瞬間まで。
………お前は俺のものだ………。
二人は互いをきつく抱き締めました。
……もう、運命は二人を引き裂こうとはしませんでした。
二人は一つとなって、……奈落へと沈んでいきました……。
そして、何も見えない真っ暗な世界で、……ぽっと、輝きました。
それは温かな、黄金の輝き。
それは、黄金の薔薇でした。
それがふわりと、………純白の無垢な砂の敷き詰められた世界に、辿り着きます。
そこには、白い砂に半分埋まった、……小さな箱が。
それは、静かな海の底での安らかに眠る、ベアトリーチェの猫箱。
その上に、ふわりと、……黄金の薔薇は舞い降りるのでした………。
それは、深い深い海の底のお話。
真っ暗な真っ暗な暗闇の中に。
……ほのかに輝く、黄金の薔薇が眠っているという、とてもささやかな物語……。
「今度はどこへ行く?」
「……あんたが北へ行くなら私は南へ。」
「じゃあ、ベルンが東へ行くなら、私は西へ行くわ。」
「……また、こんな愉快な物語を見つけられるといいわね。」
「今度は、ベルンが憎まれ役じゃないといいわねー。」
「あら。悪役も楽しかったわよ。」
「……次は、どんな物語を見つけられるかしらね。」
「そして、どんな物語で再会できるのかしら。」
「愛し合う二人に、カケラの海は狭いわ。」
「天井桟敷。」
「カケラの海は広大だわ。」
「殻の中の幽霊。」
「いつか会えるわよ。また何かのなく頃に。」
「………いいじゃない。それにしましょ。」
「「いつか会えるわ。また何かのなく頃に。」」
あっははははははははははは……。
魔女たちの楽しそうな声が遠退いていく。
さよなら、みんな。また何かの、なく頃に。
待ちくたびれたぞ、戦人ァ。
……すまねぇ。来るのが、遅れちまった。
そなた、何故、車椅子なんぞ座っておるのか。
ほら、手を貸してやるからシャンとせい。
ベアトが歩み出て、……車椅子に座る戦人に、手を差し出す。
戦人は、……その手をゆっくりと掴み、………ゆっくりと、……立ち上がる……。
………俺は、…………………。
聞けっ。ここにようやく、我らは全員が集ったぞっ。
今宵、黄金郷はここに復活するっ。
割れんばかりの拍手が、戦人を祝福する。
そこには、みんないた。
みんな、みんな、みんな。
そしてベアトは戦人を抱き締める。
強く強く、……二度と離さないように抱き締める。
本当に、………よく帰ってきたな……。
帰ってきたぜ。遅くなったな。
……もう、離さぬぞ。
あぁ。俺ももう、離さない。
俺たちは、永遠に一緒だ。
この物語を、最愛の魔女ベアトリーチェに捧ぐ
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